荻窪教会のあゆみ

写真でみる教会史


- 見出し -
昭和20年代 昭和30年代 昭和40年代 昭和50年代
昭和60年代、平成年代
(以下、冊子で教会史の下段に記載されていた記事)
鈴木 生男 さん 丸茂 啓 さん 渋谷 久子 さん 遠藤 秀野 さん
西村 浅市 さん 杉山 彰子 さん 森田 廣子 さん 今村 忠恕 さん

全体の目次へ


[昭和20年代]

 昭和21年9月29日 PL教団立教。22年1月1日東京支部(現在の中央教会)設立。
 荻窪教会の前身「杉並支部」は松島信一、徳岡右、尾花虎市、鈴木義之、永塚賢氏ら6名の発起人によって、支部設立願いを提出していたが、昭和23年12月1日正式に認可を頂き、12月30日杉並区清水町36、鈴木義之宅に支所設立する。
 25年(月・日は不明)杉並区阿佐ヶ谷南3−36−2に杉並支部の新築落成。
 27年5月13日、杉並支部から武蔵野支部が独立する。
 奉仕員会長は古川運蔵氏、27年から守田伝氏(それぞれ何年献身されたかは不明)

画像をクリックすると別ウインドウに大きな画像が表示されます。
感謝祭のあと記念撮影
(27年)
28年6月
木造平屋の教会にて


見出しへ       全体の目次へ

[昭和30年代]

 昭和31年9月、武蔵野支部との合併問題がおこる。同年11月現教会地に合併新支部建設用地を買収、12月24日地鎮祭を行う。

 昭和32年2月1日「上棟式」を行う。3月31日両支部正式に合併、神霊鎮座式挙行、おしえおやさま(二代教祖)から新支部の名称を「荻窪支部」と頂く。4月17日おしえおやさまをお迎えして落成式を開く。当時の支部長は橋本春生先生、支部担当教師は右田次男先生。

 昭和32年6月、荻窪支部が「荻窪教会」と名称変更。

 昭和37年4月21日、立川出張所を開設、閉鎖時期は不明。

 奉仕員会長は石野基一氏、境袈装治氏。

画像をクリックすると別ウインドウに大きな画像が表示されます。
32年荻窪教会上棟式 32年荻窪教会で 32年荻窪教会
ダンスパーティー
35年9月26日
立教記念の体育祭
野球大会で決勝に進出
した荻窪教会チーム
七・五・三でお祝いの
あめを頂く
(昭和36年と思われる)
教祖25年祭の
団参に参加した皆さん
(38年)
お正月モチつき大会
(木造1部2階建時代
後期?)
右から石野基一さん、
新谷春香さん、
村上一男さん、
教会長(39年)
39年
木造1部2階建て
の教会で
39年 教会広間での
PL結婚式


見出しへ       全体の目次へ

[昭和40年代]

 幹線道路環状8号線の拡幅工事のため教会の敷地を約半分提供、これを機会に旧殿堂鉄骨3階建を昭和42年10月完成、その時の教会長先生は首都ブロック指導部長、崎山道先生。

 昭和44年1月、荻窪教会より国立教会が独立する。奉仕員会長は寺村庄二郎氏。

画像をクリックすると別ウインドウに大きな画像が表示されます。
41年3月初旬、
ひな飾りの前で
41年婦人会の会合 40年頃
学生部宿泊錬成
参加者一同
40年頃
学生部宿泊錬生
女子だけで記念の1枚
40年頃 早朝献身に
励む学生たち
42年ごろ
祖遂断大会での
献身の様子
40年頃 
PL立教記念日に
中野中学グランドで
仮装行列大会に
参加した皆さん
EXPO’70
日本万国博覧会
人類の進歩と調和
48年 鉄筋3階建ての
教会でPL結婚式


見出しへ       全体の目次へ

[昭和50年代]

 ・昭和50年代は、5人の教会長先生が指導に当る。堂良造先生、原口竜秋先生、富尾増一先生、木村吉孝先生、永井健雄先生。この中でも永井先生は約10年にわたって、教勢発展に尽力する。

 ・富尾先生時代は、首都ブロック大運動会において仮装行列で見事に優勝する。

 ・奉仕員会長は古川東一郎氏が1年ほど勤め、あとは石野兼吉氏。

 ・昭和51年1月20日田無支所独立(現在の所沢教会)昭和51年4月16日福生支所独立、今日に至る。

画像をクリックすると別ウインドウに大きな画像が表示されます。
58年5月12日
婦人会行楽会
(北の丸公園で)
53年
横山郁枝さんが
教会で
PL結婚式をあげる
53年PL立教記念日の
運動会で仮装行列に
参加、優勝した
荻窪教会のおみこし
59年9月7日
白山神社まつりの
おみこしをかつぐ人
たちにお酒をふるまう
教会のみなさん
(旧教会駐車場で)
教主誕生祭の
祝賀会で
壮年会が演じた
ひょっとこおどり


見出しへ       全体の目次へ

[昭和60年代、平成年代]

 ・昭和60年10月20日、3代教主様ご巡教される。昭和62年3月14日、2代教祖夫人影身祖様がお詣りされる。

 ・昭和60年7月「PLおぎくぼ」創刊、平成2年7月創刊5周年を迎える。

 ・昭和63年3月6日の方面担当並びに各会3役会議で、新殿堂建設を決議、平成元年1月教主様から建設許可を頂く。同年7月基本設計を建設委員会で決定、平成2年3月鉄骨4階建着工に踏切る。

 ・平成2年4月永井教会長先生が石巻教会長として転任、後任教会長に横岩太平先生着任する。

 ・平成2年4月22日新殿堂地鎮祭、8月25日上棟式を挙行、平成3年2月9日待望の引き渡しとなる。

 ・奉仕員会長は池田正幸氏。

画像をクリックすると別ウインドウに大きな画像が表示されます。
62年3月14日
影身祖様奉迎
60年7月
PLおぎくぼ創刊
平成2年10月10日
行楽会
(昭和記念公園で)


見出しへ       全体の目次へ

以下に、冊子では「写真で見る教会史」の下部に
掲載されていた記事を掲載いたします。


教会の雰囲気に感謝   所沢支所奉仕員会長 鈴木 生男
 私が荻窪教会にお世話になったのは、昭和40年頃です。田無市に移り住んで間もなくでした。
当時は家内のお伴ぐらいの軽い気持ちでしたが、PLの歴史と共に歩んできた伝統ある教会のみなさんの真心と暖かさを感じ、特に教会長先生や山口きくい、丸茂啓のご両人から種々信仰についてご指導をいただきました。また当時の石野基一さん、古川東一郎さん(元奉仕員会長)達のおおらかな親しみやすい人柄に触れ、いつの間にか教会へ行く楽しみを感じました。
 朝詣や本庁錬成にも参加、大平和祈念塔近くの造成献身にも心弾んで参加させて頂きました。道路拡幅の際新殿堂建設設計計画にも加わったり、丸茂啓さんのご主人や当時の教会長先生らとゴルフを楽しんだり、2代教祖様ともご一緒にプレーしたことが思い出されます。また、2代教祖様が75歳の誕生祭の時には家内と一緒に本庁に参らせて頂き、教主ゴルフコンペで10位の飛び賞を頂いたのも強く思い出に残っています。
 約10年間荻窪教会でお世話になり、その後昭和50年田無方面、埼玉県西方面の布教計画にもとづき、荻窪教会から分離して、現在の所沢支所を作らせて頂きました。ですから荻窪教会は、所沢教会の母体教会でもあります。これからもゾーンの主要教会としての発展を期待しています。


見出しへ       全体の目次へ

荻窪教会は生みの親   東京中央教会所属 丸茂 啓
 昭和39年8月に中野区から国分寺市に転居し、11月に荻窪教会所属になりました。畳敷の広間にはいつも常勤補教師の古川さんが座っておられました。
 40年1月に正補教師錬成を受け、同年4月に婦人会長に任命されました。副会長は大先輩の石野朝子さん、伊東幸子さん、鬼頭晃子さん、寺内多加さんの4人でした。環状8号線の道路が出来るというので旧い建物を壊して、ビルを新築することになりましたが、長い長い道路工事でした。その間に支教会長制度が設けられて山口きくいさん、石野朝子さん、寺内多加さん、それに私の4人が任命されました。ゴルフ信芸をしようということで東野光助さん、寺内庄次郎さん、丸茂忠芳などが結んでコンペ等盛んでした。今の池田奉仕員会長や新井国立教会奉仕員会長もゴルフで結んだ仲間です。
 43年の元旦祭は、未だ乾ききっていない新築の教会で寒さにふるえながらの式典でした。当時荻窪教会は、東京で一番西に存在していました。西多摩地区や八王子の会員さんは、バスや電車を乗りついで時間をかけてお詣りしておられました。それで近辺にお詣りするところを授かりたいと遂断っておりましたところ、崎山教会長からお声がかかり、自宅を提供させていただくことになりました。43年11月国立出張所を設立、多摩地区に初めて拠点が生まれたわけです。44年1月支所に、同年4月教会に昇格、その国立教会から福井支所八王子支所が分かれ、これらの教会の支所はみんな荻窪教会から生まれ育ったのです。 


見出しへ       全体の目次へ

石野朝子さんの親切に感謝   千葉教会所属 渋谷 久子
 荻窪教会は私を育ててくれた一生忘れることが出来ない教会です。当時45歳で主人に先立たれ、その上健康に余り自信のなかった私が、2人の子供(長男中2、長女高3)を抱えて、これからどうして生活し子供を育てていったらいいか、途方に暮れていた時、私を救ってくれたのがPLの教えです。
 そして「おしえおやさまの尊い遂断」を頂きながら、私をここまで救って下さったのが、荻窪教会の諸先生方と、よき先輩の皆様でした。中でも当時、石野朝子支部長さんの班に入れて頂き、やさしく親切にお世話して下さいまして、本当に感謝の気持で一杯でございます。また伊東幸子さん、高松輝子さんともよきお仲間でいるほか、大勢の信友が出来まして楽しい思い出となっています。
 荻窪教会には20年ほどお世話になっていましたが、その間教会長先生方も7人位替られました。子供たちの入学、就職結婚等、その都度ご理解を頂き、どん底の生活から何とか立ち上り今日に至っております。2代教祖様は「人間の運命はその人の努力により如何にも開拓出来る」と申されておりました。私はそのお言葉に励まされて、微力ながらもコツコツと努力してまいりました。おかげさまで2人の子供は素直に成長し、それぞれ独立、物心両面に数多くのお恵みを頂いております。


見出しへ       全体の目次へ

懐かしい常勤補教師時代   練馬教会所属 遠藤 秀野
 三十数年の信仰歴の中で、24年間を荻窪教会でお世話になりました。思えばその間、いろいろなことが走馬灯のように脳裏をかけめぐります。昭和40年頃、教会が木造だった時のこと、雨が降ると前の善福寺川があふれ出し大変でした。御木優教会長先生が40畳敷の畳を積み上げて、ホトホト困っていたことなど、今でも思い出されます。
 また、原口竜秋先生の頃、悟加富が発動されると、車で会員さんのお宅を一日中走り回わられ、夕方帰って来て台所にへたへたと座りこんでおられた姿が、つい先日のことのように眼前に浮かびます。
 朝詣りが盛んだった当時、特に前田喜美枝さん姉妹の張り切りようが、強く印象に残っています。演壇献身も毎朝欠かさず立たれ、その純粋な信仰心に心を打たれました。こうした実例は数えきれないほどございます。
 石野朝子さんには、支部長として、また支教会長として手をとり足をとり、1から教えて頂きました。班長として献身のありがたさを少しづつ体得しておりました時、47年千原先生のご解説で常勤補教師の献身をさせて頂く神業となりました。
 12年4ヶ月もの間、何もわからず何も出来ない常勤の私を支えて下さいましたのは、心暖かい荻窪教会の皆様方でした。清らかな誠に終始ふれさせて頂けて私は、本当に幸せでございました。


見出しへ       全体の目次へ

教会の床上浸水で献身   円心会 西村 浅市
 私がPLに入会したのは、昭和36年でした。そして38年7月、宮崎県日南市油津から上京したのです。荻窪教会にお世話になったのですが、未知の東京で新しく生活するので、当時の荻窪教会長御木優先生からいろいろご指導を頂きました。その時の教会は、木造平屋(1部2階建)建でした。近くに善福寺川が流れておりましたので、大雨が降ると川が氾濫して、床上まで水が上がるので、夜中に大雨が降り出すと急いで教会に駆けつけ、畳をあげるやら、家具の片付けやらで大変でした。
 ところが教会前の環状8号線の道路拡幅工事のため、教会を取り壊すことになり、新たに新殿堂を建設することになりました。鉄骨三階建の新殿堂の設計、その他は、私が仲間と共同で設立した株式会社AMA一級建築設計事務所が引き受けることになり、施工は津崎工務店が担当しました。
 建設は東京都からの道路拡幅にともなう補償金で行うことにし、当時の教会長山下先生は、私の縁者が近くにマンションを持っていましたので、新殿堂が完成するまで仮住居していただきました。それから20年の歳月が流れ、私は85歳の高年になりました。後世は終生信仰させて頂きます。


見出しへ       全体の目次へ

喜ばれた朝食当番   婦人会 杉山 彰子
 今から10年以上も前の思い出です。
「日曜朝詣り朝食当番」の時です。大鍋にきりぼし大根やひじきを煮て、寒い冬の朝5時頃暗い中、高円寺の自宅から荻窪教会まで運び、はずんで準備にとりかかる。
 みそ汁に漬物なども用意する。25人か30人位の朝詣りの方々が、おいしいねェといって食べて下さった会員さんの顔々が未だ忘れられません。その時、急におにぎりをつくることになり、熱いごはんで手の皮が真赤になりまして、夢中でにぎったことでした。
 昨年の秋、多摩方面の座談会がどしゃ降りの中、午前中開かせて頂きました。二十数年前のおにぎりのことを思い出して、新米にたらこを入れたおにぎりを、手に力を入れて結びの上にと遂断ってつくらせて頂き、皆さんにおいしく食べて下さるよう遂断ました。
 祖遂断の体験も思い出の一つです。17年前、入社まもない息子が突然会社でギックリ腰となり、救急病院へ運ばれたのです。入退院を繰り返し3回目、覚悟して入院、手術する。この時教会で朝早く祖遂断を頂き、この身にかえてでも手術の成功を念じ、病院の屋上で祖遂断を念じ続けました。おかげさまで手術が成功し、リハビリでつらい訓練を経て職場に復帰出来、今は資生堂「ザ・ギンザ」で働いております。嫁さんと3人の孫、家族一同で楽しい日々を過ごさせて頂いておりますが、それもPLのおかげと深く感謝せざるを得ません。(多摩方面)


見出しへ       全体の目次へ

祖遂断で九死に一生   婦人会 森田 廣子
 私は、昭和37年10月、早田雅子さん(住子さんのお姉さま)と、大田昌枝さんに勧められて、PLに入会させて頂きました。
 その頃の教会は畳の大広間で、暖かさを感じました。当時は、大田区長原に住んでおりましたので、教会まで遠かったので余りお詣り出来ませんでした。入会して間もなく「胃潰瘍」と「子宮筋腫」2つの手術をするような大きなみしらせを頂きました。その頃はみしらせのことも何もわからず、教会の中原先生と早田さん、大田さんが私のために遂断って下さいました。教主様のおかげで“九死に一生”を得て助かったことが、信仰を続けていくうちにわかってまいり、またPLのおかげで練馬の都営住宅が当り、教会が近くなりました。自然と信仰に身を入れるようになるとともに、孫が12年目にやっと授かり、母が93歳の天寿を全うさせていただきました。
 あんな大病した私が、かぜもひかずに元気で70歳になった今でも、仕事をさせて頂けるなんて、PLの教えの素晴らしさをしみじみ感じさせて頂いております。
(練馬B方面)


見出しへ       全体の目次へ

私は純粋のPLっ子   壮年会 今村 忠恕
“子供のころ”
 私は、生まれた時から母親(石野朝子)に「あなたは『みおしえ子』ですから、教主様の御徳を受けています。将来世の為人の為になる様な人間になってください。」と言われて育てられました。その意味では、純粋の「PLっ子」と言えるでしょう。2歳の頃から荻窪教会で育った私の1番心に残る思い出は、子供会の頃のことです。この時代はテレビ・電話の普及、美智子様の御成婚、ケネディ大統領暗殺、長島茂雄・栃若相撲の全盛、そして東京オリンピック開催、新幹線、首都高速道路開通等、社会全体が新しく生まれ変わろうとする時期でした。
 特に強く憶えていることが2つあります。ひとつは餅つき大会のことです。駐車場前の2つの杵臼で正月を迎える御供餅、紅白餅を作り、教会の中では婦人会のお母さん方が出来たてのほっかほかのきな粉餅、あんこ餅を作って子供会の面々に分けてくれました。それを食べた時のおいしさと言ったら、正に「PL夫人―お母さんの御餅」の味でした。
 2つめは大広間にいつもあった大きな大きな縁のついた丸火鉢の想い出です。3メートル程にもあったように大きく感じるものでした。私の母親は、幼い私にとって見ればPL一辺倒で、あの大広間の丸火鉢に着くと何時間でも話をしており、私はその間、学生会の人(越智さんという方等です。)と相撲したり、はさみ将棋をやったりしてはいるのですが、(なかなか帰らないので)最後には私の大声の泣き声で席を立つというのがいつものパターンでした。
 当時の子供会のメンバーは、伊藤みゆきちゃん、吉田恵子ちゃん、田所福子ちゃん、島田滋君、秋山美和子ちゃん姉妹、池田郁枝ちゃん姉弟、中村君、岡田パン屋さんの兄弟(名前失念)将棋のプロを目指していた○○君etc.でした。


見出しへ

- 荻窪教会のあゆみ 目次 -
表紙 PL宣言 祝辞 各会々長メッセージ 荻窪教会新殿堂落成式祭文
荻窪教会沿革史・年表 右田次男先生の懐かしい日記
荻窪教会長時代のよき想い出 座談会「荻窪教会草創期を語る」
写真で見る教会史 新殿堂落成までの歩み 新殿堂の概要
編集後記